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兵庫県立美術館にて開催中の「藤田嗣治展」に行ってきました。
今年、生誕130年の藤田嗣治。1913年大学卒業後27歳でフランスに渡り、
戦争を介して苦難に満ちた画家の生き様を見せ付けられる展覧会です。
「乳白色の肌」の裸婦画で一機にパリで花咲き、芸術家の先端を行きました。が、
日本に帰国後、戦争中に描いた戦争画が、賞賛から戦争責任の批判の対象となり
1949年日本を離れ、フランスに帰りカトリックに入信、フランス国籍を取得しました。
中庭のいぶし瓦。日本を瓦で埋め尽くそう!
ヤノベケンジ作「Sun Sisterなぎさ」。阪神・淡路大震災から20年のメモリアルとして製作された巨大オブジェ。海を見つめ、右手に輝く太陽を持っています。
アート作品が並ぶ海岸ロード。もう少し木陰・緑がほしいですが・・・。
おかっぱ頭に丸メガネ。藤田嗣治といえば自画。その時の時代背景、心の中が自画の中に現れています。
美術館アプローチにある、セザール作「エッフェル塔ー板状」。エッフェル塔の廃材で出来ています。
日本とパリ、ふたつの時代と文化を生き、二国を結ぶ圧倒的な絵の力が、藤田の波乱万丈の生涯をみて取れます。真夏にゆっくり美術館での鑑賞はいいものですよ!
先月、岡山県立美術館にて「前川國男展~岡山からの提言~」が開催されました。
岡山には、県庁舎、天神山文化プラザ、林原美術館の作品が現存しています。
世界文化遺産に認定されるだろう(2016.7.10世界遺産委員会で登録の審議)「ル・コルビュジエの建築作品」7か国17作品の中に、東京の国立西洋美術館があります。その実施設計を3人のコルビュジエの弟子(前川國男、坂倉準三、吉阪隆正)が行いました。そのうちの一人、最初の弟子が前川國男です。
前川國男は、建築家の職能確立に取り組み、モダニズムのインターナショナルな側面を引き継いだ建築家です。
卒業論文でコルビュジエ論を書き、卒業式の夜友人たちに見送られ東京駅を発ちシベリア鉄道を利用してパリのコルビュジエ事務所へ向かいました。2年間コルの事務所で働き、帰国後レーモンド事務所で5年、そして1935年独立しました。
最初の作品「弘前こぎん研究所」は、バルコニーが凍害により朽ちてしまい前川は「モダン建築は脆弱だ!」。「弘前市民会館」の打放しコンクリートでは、高温多湿な日本では打放しは痛みが激しく長く持たない。その後打放しコンクリートをやめタイル貼りにします。
「弘前市庁舎」では庇を長く出し、「緑の相談所」「弘前市斎場」では、前川にとっては重い決断をしました。モダニズムと対立する傾斜屋根にしたのです。
「岡山県天王山文化プラザ」1962年竣工。ピロティ、打放し、ブリーズ・ソレイユ、コルビュジエ建築の要素が取り入れられているこれぞ近代建築の岡山の名作。
実は、和風の屋根を架けることが条件の「帝国博物館のコンペ」で前川はあえて陸屋根の案を出し落選しました。しかし、モダニストのアイデンティティーをかけ戦い、敗れはしましたが賞賛され闘将と呼ばれるようになりました。
「環境破壊を起こす建築は断ることが建築家の決断として求められる」
「伝統と創造を思わずして、我々は歴史を考えることはできない」
「ミースの建築には魅力を感じない」
「いいプランは美しい。プランを練っていくと一筆書きで描けるようになるんじゃないか」
「住む人の自発性を殺してしまうようなデザイン本位の家なんかは死んだも同然と言えるでしょう」
「樹は自然のままの姿が一番だよ」
「人間いかに生きるかのほうが建築よりも大切だ」
「建築の設計は人から頼まれてやるもの。頭を下げて取った仕事はろくなものはできない」 節操なく仕事を取らない。
前川事務所は設計入札は拒否していました。設計料の競争で設計者を選ぶ方式には声がかかっても辞退する方針でした。
キャリアの最初の作品でうまいこといかず、その現実から目を背けることなく問題の克服を全身全霊で考え、永く残る本物の建築を求め挑戦した建築家。
プレファブ住宅 プレキャスト化 打込みタイル スチールサッシ・・・
日本に近代建築を打ち立て、建築家の持つべき誇りを貫き通し戦い続けた「闘将」。
今、前川國男の声を聴く時かもしれません。
竹中大工道具館にて、「エバレット・ブラウン湿板写真展」 3/13まで開催中です。
写真の歴史は、結構古く、紀元前4世紀に写真の原理が発見され、写真の誕生は1820年。その後、1839年銀板写真が登場し、湿板写真は英国で1850年代に開発され、1859年に日本へ伝来しました。
淡路のだるま窯で焼いた敷瓦。雨に濡れて焼きムラがはっきり現れ、より自然に近づく。
1870年代、乾板写真が登場、1880年代からカメラの小型軽量化、その後現在のデジタル化へと発展してきました。
竹木舞。土を塗る前の下地は重要。そして、美しい・・・。
E・ブラウン氏は1988年から日本に永住しているフォトジャーナリストであり、湿板光画家でもあります。幕末から明治期の写真技術を駆使し全国を旅しながら、日本の失われた、また、失われつつある時間を記録にとり、伝えています。
蛍壁。火打窓の枠は、通常木製ですが、これは、黒漆喰磨きで仕上げています。手前の壁は、土から浮かび上がる錆を蛍光と見立てている蛍壁。奥の壁は、漆喰赤磨き仕上げ。弁柄入りの漆喰を刷毛で叩き出し、鏝で凸部分を削り落し痕を磨いています。
湿板写真とは、感光液(フロジオン液)をガラス板に塗って撮影・現像しネガを作る写真です。湿った状態で撮影を行うため湿板と呼ばれています。一枚作るだけでも多くの機材と薬品が要り、大変手間・時間がかかります。
①感光液を作る
様々な液を混合し熟成させる。期間2日~2週間。
②ガラス液を磨く
ガラスの表裏を二酸化炭素でよく磨く。次に卵の白身とアンモニウム等を混ぜ合わせた下地をガラス板に塗布。
③感光液の塗布・浴銀
ガラス板に感光液をまんべんなく塗布。その後暗室でガラス板を硝酸銀溶液に浸す。
④撮影
ガラス板をカメラに装着。ガラス板が乾く前に撮影する。感光時間3秒~18分間。
⑤現像~定着
ガラス板に硫酸第一銀溶液を流しかけ現像。画像が浮かび上がったら水道水をかけ現像停止。その後、シアン化カリウム溶液に浸し画像を定着させる。
⑥水洗~乾燥
ガラス板を十分水洗い後乾燥。膜面保護の為、ニス等でコーティング。
日本の面影をテーマとしたオブジェ「LENS」
E・ブラウン氏は、湿板写真で日本の伝統文化、道具・人・建築・景観を面影を追い、後世に伝えて、ものづくりに宿る魂を表現しています。そこには、宮大工・小川三夫、瓦職人・山田脩二、左官・久住章、妙喜庵・待庵、箱木家住宅、聴竹居・・・。
時間をかけて写し出された湿板写真からくる時間の経過が、道具・職人たちから多くのメッセージとして我々に問いかけてきます。
2020年東京五輪・パラリンピックの競技場が、2案のうちA案(設計:隈研吾+梓設計、大成建設)に決定しました。
両案とも短い期間と多くの規制のなか、両建築家の特色が出て、どちらに決まるか楽しみではありました。パースからA案の方はイメージしやすいですが、B案の方は、建ってみなければわからないドキドキ感はありました。
隈研吾設計の「浅草文化観光センター」。浅草寺の向かいに建っており浅草の顔になりつつあります。五重塔からヒントを受け、日本の切妻屋根と木の縦格子のデザイン。
審査はJSC技術審査委員会が採点式で審査し、隈研吾案が610点、伊東豊雄案が602の僅差になりました。その差8点。9項目の内5項目が伊東案の方が高得点でありました。特に、「建築計画」の項目では、18点の差がありました。
「長崎県美術館」運河を建築に持ち込み、外観は木の格子を多用しています。屋上は緑化され、決して周囲に主張していないまさに隈建築です。
「工期短縮の実現性」の項目で、27点差がつき、この項目が、決定に大きく左右されました。両案工期は同じでも、工期厳守の安全性の高さを評価したそうです。
まあ、もともとザハ案の本体工事を請け負う予定のゼネコンが有利なのはあきらかで、もし、当初行われたようなアイデアコンペなら、逆の結果になっていたでしょうか。
バルセロナに建つビル。バルコニーはこのように緑で覆われています。新国立はこのような感じになるのでしょうか。
「負の建築」「小さな建築」をコンセプトに、まわりの環境・自然に、はむかうのではなく頼り、身近な素材でヒューマン・スケールを建築に実現する。
今後、基本設計を詰め、実施設計、申請関係、見積り等大変で膨大な作業になってきます。工期厳守の中、見積り調整も、概算の1490億以下で抑えてほしいものです。
国立競技場は、日本国民の共有財産であり、最高最大のパフォーマンスを披露する舞台であります。そして、永きにわたり皆に愛される場になってほしいです。
「カンプ・ノウ・スタジアム」FCバルセロナのホームグラウンド。ヨーロッパ最大規模の98000人収容の巨大スタジアム。全世界のサッカーファン、観光客が試合の無い日でもスタジアムツアーに訪れます。もちろんバルセロナ市民、いやスペインの誇れるスタジアムです。
工事中の見学ツアーとかあれば、それと、子供たちでも塗れる土壁とか、ワークショップなどあれば良いと思いますがどうでしょう。
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