旧ユーゴスラヴィア3ヵ国の旅⑨ ドーハ編
イスラム教は酒は原則禁止。国内持ち込みも禁止。空港では厳しくチェックされます!免税店で封をした酒でも持ち込みが禁止だとは!別室でパスポートチェック、書類のために質疑応答・・・。 当然ラキヤ没収。その後急いでバス待合所に向かったがバスは行ってしまった。 ドーハ観光楽しみにしていたのに・・・。ショック
ドーハはまるで未来都市だ。急速に発展している。
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市内はトロリーバスやトラムが走っており車の交通量が多い。 さすが、セルビアの人口1/4の200万人の首都だ。
20世紀初頭に建てられた「ホテル・モスクワ」セセッション建築。ベオグラードを代表する建築として有名みたいです。
ここに人々が住み始めたのは、紀元前4500年、ケルト人、ローマ人、スラブ人など様々な民族がこの地で文明を築いてきた。
ベオグラードはドナウ川とサヴァ川が交わる場所に位置する。 カレメグダン公園から新市街:ノヴィ・ベオグラードを望む。 紀元前4世紀には既に要塞が造られていた。現存する殆どが18世紀以降のものです。 ライトアップされた擁壁は美しい。旧ユーゴスラヴィア3ヵ国の旅の最後の夜に相応しい。この公園には「ししおどし」があります。この擁壁の一部分、日本が復旧に貢献しました。2010年日本への感謝の気持ちとして造られた。 嬉しいです。
ベオグラードのホテル「アストリアホテル」シャワー室は円形の宇宙船みたいだった。
最後の夕食。セルビアは伝統的に養豚が盛んだ。厚みのある豚肉。美味しかった。食べ応え十分だった!
ホテルはベオグラード本駅の近く。
夕食後駅まで散歩。この国の首都の駅。しかし、暗い。
明日は帰国。カタールのドーハでの乗り継ぎ8時間25分を有効に使うには。
市内観光ツアーに参加するぞ。ドーハに到着ギリギリのツアーの受付時間終了まで15分。間に合うかどーは!?
昼食のデザート。シロップ漬けのこの様なお菓子がセルビアには多いです。甘すぎる。
ノヴィバザルの街をぶらぶら散策。
上屋の出と軒の出がいいですねー。町の中に普通に(ハマム)トルコ式浴場跡がありました。朽ち果て、そのままの状態。その付近には貴金属店が密集していました。お母さんと一緒に貴金属店に買い物に来ている少女。まだ全く興味がない年ごろでしょう。あまりこの辺では見かけないアジア人の方が興味深かったりして・・・。じっとこちらを見ていました。しかし子供は国籍問わず可愛いですね。 高層マンション。1階は店舗。上階はマンション。 デザインは未来的、ソ連的。ピロティ部分の柱は凝っている。川の上に建つホテル。 小さな公園。遊具は日本のものと違う。こちらでは一般的なパン。見た目はあまりおいしそうには見えないけれど中はもちっと外はパリッと以外に美味しい。 オスマン時代の城壁にあるオールドタワー。見張り塔。これなんか中に入って上まで上がってみることが出来たらいいのに。 ノヴィバザルで宿泊したホテル。「HOTEL TADZ」街の中心の イサコヴィッチ広場からほど近い場所にあり、街を散策するのに便利なところでした。このクラスのホテルには珍しく浴槽がありました。浴槽があれば思いっきりバシャバシャ洗濯できるので 大変うれしい。
セルビアのノヴィバザルへ向かいます。セルビアはバルカン半島の中心に位置する面積は北海道の5分の3程の小さな国だ。かつてはユーゴスラビ内で中心的役割を果たしていた.
ポドゴリツアのホテル・ラマダの平面図。ホテルでは一息ついてから測量します。15分位でサラッと。疲れているときは早く寝たいが、長年続けているので辞められない。
モンテネグロのポドゴリツアのホテルで朝食をたっぷりとって今日も1日元気に歩き回ろう!
2月なので雪が残っています。車窓から小さな教会がぽつぽつ見られます。これも教会でしょうか?
この町はコソヴォに近いこともあり人口の約半分はイスラム教徒です。
ノヴィバザルの街に入ってきました。軒先が出てない瓦屋根。樋が無いので雨水はそのまま流れる。通行人は大変じゃ!
聖ペトル聖堂。セルビアに現存する聖堂として最古。バルカン半島に残るキリスト教建造物の中で最古です。現存する建物は9-10世紀。墓地と一体。歴史を感じる。美しい光景だ。ゆっくりぼちぼち見学しよう。 この聖堂は土台は4世紀、上は6世紀のもの。今ある聖堂は古い聖堂の土台の上に建てられた。7世紀に大改修された。
幅広の十字架は聖堂創建以前にあったそうです。入口。本日は何かの集まりのため旅行者は入れなかった。普段は入れるそうです。残念。 プレ・ロマネスク様式、丘の上に建っている。街の象徴。美しい。雪と石積がよく合う。
2階が玄関。いや、これが1階かな?その下の明り取りの窓の部屋は地下?1階?
昼食でこのレストランに入る。
とても美味しかったです。セルビアの定番の定食です。量が多かった。お腹一杯。
さあ、これから、ノヴィバザルの街を散策
モスタルはまた訪れたい場所でした。
モンテネグロのアドリア海沿岸の街コトルへ。モンテネグロはイタリア語のヴェネツィア方言で「黒い山」を意味します。
途中、バスごと船に乗りコトルへ向かう。船にはモンテネグロの国旗がなびいている。
モンテネグロは2006年に独立した人口62万、面積は福島県と同じ位の小さな国です。
コトル旧市街に到着。東面の黒い岩肌に城壁が見える。全長4.5㎞、最高高さ20mの
城壁、コトル湾に囲まれたポカ・コトルスカと呼ばれる地域。天然の要塞。
石畳の狭い路地で構成される旧市街は貿易により発展した世界遺産の美しい街です。
コトルはローマ・カトリック文化圏と東方正教文化圏の境界に両方の教会が建っている。聖ニコラスセルビア正教会は1909年創建されたビザンチン様式の教会です。
石灰岩の白い外壁に緑色の木製開き窓がよく似合う。
1195年に建造されたセルビア正教会の聖ルカ教会。ロマネスク+ビザンチン様式の特徴ある外観です。 狭い路地に地元のカワイイ暴走族が!「どけどけ~!」
城壁に上がる入口リレーフ門。
がたがたの石畳。地元のおじいちゃんと孫娘たちも元気に上がってきます。 上がるたびに景色が広がっていく。中腹にある救世聖女教会へ向かいます。 赤茶瓦が美しい。1979年の地震によって多大な影響を受けました。ユネスコなどの協力により景観が戻った。 山の斜面に育つ糸杉がたくましい。雪が残る1月ではあるがけっこうしんどい階段だ。シャツ1枚だが汗をかきました。 中腹のベンチに到着。西側のコトル湾と旧市街を望む。 この地形が敵から守ってきました。現在は人気のリゾート地。
1518年に建てられた小さな教会。山にすっぽり収まっています。 ここからの景色は素晴らしい!下りの方が階段が濡れており怖かった。
山と海に囲まれた城壁都市コトルは12世紀以来の建築が残り美しい街でした。小さいながらも路地が複雑に入り組んでおりもっと時間を掛けて歩きたい場所でした。
年末・年始にかけては、話題の映画が上映されますね。
本日5日より公開の「杉原千畝(東宝)」は、注目のぜひ観てみたい作品です。
2001年10月、早稲田大学が友好の証しとして、リトアニアに記念碑と桜の木を植えました。
第二次世界大戦中、バルト三国のひとつリトアニアの領事館領事代理の杉原は
ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなどの欧州から逃れてきた難民達の為に、日本国
外務省の訓令に反して、ビザを発給しました。
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。
最後の頼るところ日本のリトアニア領事館に、多くのユダヤ難民が命からがら集まり、ソ連、日本を経由し、第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきました。
現在は「杉原千畝記念館」になっています。2007年に訪れました。
日本政府は、表面上はユダヤ人保護を示していました。しかし、難民達が日本に来ることを断念するよう裏で仕向けていたそうです。
悲惨な難民達の姿を見て、また、現地でナチス・ドイツのことをよく知っている杉原千畝は、政府に背向き、人道的観点から独断で6000人にも及ぶビザを発給しました。
それも、杉原がベルリンに移る前の1ヶ月間で寝る間も惜しみ、また、ベルリンに向かう列車の中でも書き続けていました。
「トルコ・エルトゥ-ル号遭難事件」「マチュピチュ村を作った日本人」は有名な話ですし、今現在でも多くの日本人が世界で活躍されています。
杉原千畝氏は、家族共々身辺に迫る戦争の危機の中にありながら、自らの信念と、必死の覚悟で、多くの命を救いました。
多くの素晴らしい先輩方が日本の為世界の為に命を懸けて行動を起こし役立ち、歴史を作ってきていることに感謝し、我々後輩たちは努力していかなければなりませんね。
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